ビルマ(ミャンマー)に暮らしたこと

ビルマ(ミャンマー)に暮らしたこと その2 のページへ

           インドネシアに暮らしたこと   
                 〜使用人と暮らす その2〜                                                                                  
またまた、お古いお話で失礼致します。


 ミャンマー(ビルマ)から帰国して約7年、次に暮らした異国の地は、インドネシアの首都ジャカルタでした。今回は、二人の子供たち(6歳の男の子と、5歳の女の子)も、一緒です。

インドネシアって、よく耳にするけど、どこ?って、思っていらっしゃる方、結構多いのではないでしょうか?
 お笑いになるかもしれませんが、インドとインドネシアの区別がつかない方って、わりにいらっしゃるんですよ。バリ島が、インドネシアって知らない方も。

世界遺産のボルブドール遺跡(仏教)とプランバナン寺院群(ヒンズー教)が近隣に存在する、ジョグジャカルタとジャカルタが、ごっちゃになっている人も少なからずいらっしゃるようです。ジョグジャカルタは、ジャカルタから飛行機で1時間以上かかります。 

 私たちが暮らした20年以上前のジャカルタは、ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)とはかなり違っていまして、大都会でした。今とは比べ物になりませんが、ビルマ暮らしの後でしたので、大いに驚いたものです。スーパーマーケットには、まだ日本には無かった、バーコードのレジがありました。余談ですが、日本人学校のスクールバスはベンツ!!小、中学生合わせて、1,300人以上の生徒がいました。

さて、使用人の話でしたね。

 その前に、少し民族のお話をさせて頂きます。ビルマは、13種族(女中さん達はカレン族)でしたが、インドネシアは、1万7千の島からなり、300種族250言語あると言われています。我が家の使用人さん達は、ジャワ人でした。今使われている、バハサ・インドネシア(インドネシアの公用語)は、スカルノ大統領の時、マレー語を基に作られたもので、小学校に入ってから習います。

 その頃は、まだ駐在員の大半が一戸建ての広い家に住んでいましたので、使用人達と暮らしていました。現在では、ほとんどの日本人駐在員は、アパートメント形式の高層住宅に住んでいますので、運転手以外の使用人は、あまり雇わなくなったそうです。

 赴任して最初に、先輩の奥様方に教えて頂いたのは、使用人対策でした。
やはり、物がなくなるのは、日常茶飯事の様です。冷蔵庫や戸棚、クローゼット等に鍵をかけるのは当たり前!ウイスキーは、飲みかけの瓶を逆さまにして、線を引き元通り置いておく(そのまま線を引くと、薄められる恐れあり)お米を使ったら、指で「の」の字を書いておく等など、日本にいては考えられないことばかりです。皆さん涙ぐましい努力をされていました。しかし、うっかり者の私にはとても出来そうにありませんでしたので、思いきって、大事な物を入れてある戸棚の鍵を女中さん達二人に預けてしまいました。


 我が家の使用人は、コキ(コックのワルティ19歳、チュチ(洗濯)のラスミー17歳、ボーイ(門番兼庭師)のヤティミン24歳の3人で、一緒に暮らしていました。彼らは同郷で、家の2階の6帖程の2部屋で、確か親戚同士だったので、仲良く住み分けていたようです。運転手は、主人の会社のスギオと家庭車(二軒に一台)のダニー、二人は通いでした。運転手さん達の休憩の部屋もありました。まあ、ビルマの時とあまり変わらない顔ぶれです。

 ちなみに、名前の前の敬称ですが、目上の男性はバパ、女性はイブです。目下の人は愛称で呼び捨てなので、我が家では子供達に、使用人さん達には必ず日本語の「さん」を付けて呼ぶ様に指導していましたので、私達もさん付けで呼んでいました。
 当時は、植民地時代の名残で、外国人の私達の敬称は、男性はトワン、女性はニョニャでした。今でも、私達の集まりは、ニョニャ会と称しています。

 使用人さん達とは、概ね平穏に、仲睦まじく帰国まで暮らすことが出来ました。しかし、子供達用にと、学校で使う白い上履き用の運動靴を、インドネシアでは買えないと言うので、成長に合わせてと各サイズ2足ずつ30足持って行ったのです。が、ふと気が付いた時の子供達のサイズあたりの6足しかありません。子供達二人の為に、ちゃんと残しておいてくれたのですね。まあ、数あるものは、少しずつ減っていました。
 イスラムの影響で、富める人が貧しい人に施すのは徳を積むことになる、故に数多くある物から少し拝借してしまうのに罪悪感がない(徳を積ませてあげる?)と言うのですが、どうでしょうか?まあ、ビルマ駐在のおかげで、かなり免疫が出来ていましたので、あまり辛い思いをせずに済みました。税金のようなものでしょう。

 さて、彼らの待遇は、どんなものだったのでしょう?
休みは、運転手さん達は土曜半日と日曜でした。女中さん達は、断食月明けのレバランというイスラムのお正月に1週間程、皆で故郷に帰ります。その時は、ボーナスとお土産を持たせます。その他は、休みを交代で適当に取っていたと記憶していますが、どうだったかしら?
女中さんが休みの時、ボーイさんが上手に料理を作ってくれて感激したこともありました。我が家のコキのワルティさんはとても器用で、お料理が上手でした。ラスミーさんやヤティミンさんに丁寧に教えてくれていたので、とても助かりました。彼らのお給料は、月約5,000円位。その他に、現物支給で石鹸、油、米等の生活必需品を付けます。それらは、夫の給料から支払っていました。運転手の給料は、会社から支払われていましたが、残業代は私達の個人払いです。治安がとても悪く、ほとんど外を歩くことの出来ない生活でしたから、車と運転手はとても重要な存在でした。女性の運転は会社から禁止されていました。当時はタクシーもかなり危険でしたので、車のない日の私のいる場所は、やはり「夢のワンルーム」しかありませんでした。今、お掃除がとても苦手なのは、この頃楽をしてしまったからでしょうか?

 インドネシア語で、素敵な言葉は、「ティダ・アパアパ」(大丈夫、問題ないよ)と「キラキラ」(だいたいのところはね)です。おおらかで、おっとりとした国民性を表しているようです。しかし、お皿を割ってしまった女中さんに、「ティダ・アパアパ」と言われてしまうのには、ちょっとねぇ・・・・まあ、所変われば・・・ですね。今でも、駐在時代の友達と年に何回かジャカルタライフを楽しみに行っています。

アルジェリアで犠牲となった方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

注)力不足で、なかなか説明し切れていないところだらけで、申し訳なく思って
おります。
  もし、ご興味も持たれ、ご質問などございましたら、是非ぜひ
日生興産山口まで、ご連絡
  くださいませ。出来る限り、丁寧に説明させて頂きます。

                           (平成25124日 山口寿子)

                                 
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